2020年3月18日水曜日

松延康さんについての投稿番外編

松延さんの企画したライブの前座をやらせてもらったときの写真が出てきたので、載せます。


最初のバレエスタジオでの写真です。




2回目の、マンションエントランスでの写真です。







松延康さんについての投稿

「たけひこー、見田くんだよー。」見田くんから家に電話がかかってきた。高校二年生の冬だ。静岡の田舎に住んでいたぼくが、当時みんなすでに結構持っていた携帯電話を持っていなかったため、東京に住んでいた見田くんは、用事があるたび、家電にかけてきてくれた。「今度キャロルのギターの人とか、プロのハーモニカの人とかのライブの前座やるんだけど、いっしょにやんない?」だいたいこんな感じだったと思う。ミーハーなぼくは、あの矢沢永吉さんのバンド『キャロル』のギターの人と聞いてすぐにやりたいと思った。そして、キャロルに紛れてしまって、気づくのが遅くなってしまったのだが、プロのハーモニカの人ってそれ、よく考えたらすごいじゃん!と思った。「えっ!何て人なんて人?」興奮ぎみに話していたと思う。「いや、ちょっと名前覚えてないんだけど。」見田くんは落ち着いていた。さすが都内に住んでいるだけあるなと思った。結構長くしゃべっていて、母親に早く切りなさいとか何回も言われた気がする。こうしてぼくは、来年受験なのに、東京に、キャロルのギターの人と、プロのハーモニカの人のライブの前座をしに行くことになった。見田くんのところへは、路上ライブをしに何回か行ったことがあった。ぼくは、年に2、3日しか休みがない、ちょーきびしいバレー部に入っており、その都度体調を崩したことにして休んで行っていたのだが、今回もそうすることにした。毎回だが、キャプテンに、「東京いって歌ってくるから、なんとか先生にうまくいっておいておくれよ。」と、とてもめんどくさい役割を任せてしまっていた。いまだに仲良くサッカー観戦などする彼は、当時からほんとうにやさしかった。ありがとう、キャプテン。だが、親にも許しをもらって、バレー部の先生対策も万全というところで、ぼくは、思わぬ事態に直面してしまった。なんと、耳から血が出て困っていたので耳鼻科にいったところ、あろうことか、このタイミングで、中耳炎になってしまっていたのだ。キャロルのギターの人とプロのハーモニカの人の前座が迫っているのに、中耳炎。完全に行けないと思った。まったくお話にならなかった。ぼくはとてもがっかりした。横浜に住んでいる二番目の姉からちょうど実家に電話がかかってきて、母がその事を言うと、電話を変わられ、「おいちゅうじ!ちゅうじくん!大丈夫かね?はーっはっは!ちゅうじーー!くるしいーー!」とか言われて、非常に腹が立った。ただでさえ行けないという状況でいらだたしいのに、「ちゅうじえん」まで言わずに、「ちゅうじ」で止めるところが、またその「ちゅうじ」という音が、腹立たせる効果抜群で、怒り狂いそうになった。が、抑えて抑えて、はいはい、と懸命に受け流した。このまま行けないのか。せっかくのキャロルのギターの人とプロのハーモニカの人なのに。いてもたってもいられなくなったぼくは、通い始めた耳鼻科にいったとき、先生にこのことを話し、なんとか行けるようにしてくださいとお願いした。先生は、じゃあ、と、2、3日か後に、急ぎで耳の膿をとる簡単な手術をして、一か八か、その後の経過を見る、というなかなかな対策をしてくれた。この場合失敗とかではなく、痛みがおさまらなかったら痛くて行けないとかそのくらいで、別に耳に影響が出るとかではなかったのだが、ぼくにとってはこの耳の状況が一刻も早く改善してほしいので、この大勝負に、人生すべてをかけるようなそんな勢いの中での挑戦だった!なんの処置のためにか忘れてしまったが、手術前に、看護婦さんが、「右手出して。右手!だから右っ!そっちはひだ、、、あ、ごめん、右手だったね、ごめんごめん。」とか言っていてとても不安にかられるスタートだったのだが、手術は無事終わり、耳に違和感を抱えたまま、その後もよくなるように病院に通い、たしか鼓膜に穴をあけたと思ったので、結構痛かったが、きびしすぎる練習でおなじみの部活も毎日やって、ついに、前日になって、少し痛いというか違和感あるけど、まあ、部活もやってるし、いける!と判断し、親にも許可をもらい、ぼくは、華の都大東京の方へ、鈍行で、それはそれはゆっくりと向かった。体調を崩して部活を休むのは2日が限界のため、当日に行ったと思う。どこをどう行ってどこで見田くんと合流してとかまったく覚えていない。ぼくの記憶はライブ会場の、小平のバレエスタジオのドアの前からだ。見田くんとともに、バレエスタジオのドアを開けて中に入ると、きれいに椅子が並べられ、照明などもつられ、壁には一面に暗幕がはられ、音響の機材なども整っており、いかにもこれからなにか始まりそうな雰囲気になっていて、とても圧倒された。東京ってすごいなあと真剣に思った。入り口であいさつをすると、中から、ただならぬ雰囲気を持ったおじさんが出てきた。「おお、いらっしゃい見田くん。この子が言ってた子?こんにちは、松延です。今日すごいよ。ハーモニカの妹尾さん来るんだよ。」おじさんは畳み掛けるように話しかけてきた。いったい誰なんだこの人は。よくわからなかった。いきなりすごい雰囲気の場所に連れてこられて、すごい雰囲気のあるおじさんに話しかけられ、ぼくは困った。困ったが、妹尾さんという名前を聞いて、とっさに、「えっ!妹尾さんって、ホーナーのカタログに載ってる人ですか?」ホーナーは、ドイツの楽器メーカーである。ハーモニカの生産がかなり有名で、ぼくや、長渕剛さん、ゆず、ボブ・ディランなどが使っているあの小さいハーモニカもつくっており、『ブルースハープ』という機種があまりにも有名になりすぎて、正式名称もこれといってないのだが、ブルースハープという名前で呼ばれるのが一般的となっている。そのホーナーのカタログに、有名なハーモニカ奏者が、国内外何人も載っているのだが、その中に妹尾隆一郎さんという人がいたのをぼくは覚えていたのだ。「そうなの?載ってるの?まあでも載っててもおかしくないよ。有名な人だもん。ハーモニカ教えてもらいなね。」おじさんは、小学生に話しかけるようにやさしくぼくに話しかけた。ぼくも高校生なので、違和感を感じたりすればいいのに、急に東京をまざまざと見せつけられてかなりこわくなっていたため、おじさんがやさしく話しかけてくれて、なんだかとてもほっとしていた。見田くんとぼくは荷物を置いて、中に入って準備をみていた。なんだかいろんな人がいろんな準備をしていてなにがなんだかわからなかった。ぼくたち以外にも2組でるようで、その人たちも少し離れたところにいて、何やら楽器など準備しているようだった。東京でやってる人なんかと同じところでやって恥をかかないだろうか、かくだろうな、かくなこれは。ぼくはとても不安になってきていた。見田くんが頼りだった。キャロルの人やプロのハーモニカの人はまだ来ていないようだった。会場の準備が割りと整ったところで、1組ずつリハーサルが始まった。何番目だったか忘れたが、ぼくは緊張していた。こんなふうにしっかりとマイクなどを使って歌ったりするのは初めてだ。どうしたらいいのか。ぼくたちの番になった。ステージに出て、2人並んだ。「じゃあ、ギターだしてー。」おじさんがいった。あのおじさんがなんなのかが全然理解できなかった。誰なんだ。そしてここはなんなんだ。なんでバレエスタジオでコンサートをするのだ。おじさんとバレエスタジオの関係はなんだ。わからないことだらけのまま、サウンドチェックがはじまった。ぼくもおじさんに従って声を出した。見れば一発でわかるのに、ぼくは、なるべくはじめてとばれないように気を使っていた。じゃあなにかやってと演奏するように言われたのでぼくたちは演奏をした。歌ってみると、声がフワァンフワァン響いて気持ちよかった。なんなんだこの効果は。今はリバーブだとわかるが、当時のぼくには東京の魔法にしか感じられなかった。全部東京ってすごいなと感じてしまっていた。いちお確認するが、ここは小平だ。リハーサルをおえたぼくは、なにか、ひとつ、成し遂げた気になってしまっていた。会場にいる人たちが、ステージで歌ったことで、自分達がなんなのかを理解してくれたと感じたので、さっきよりもこの場所にいるのが楽になった。コンサートが始まるまではかなり時間があったので、見田くんと音を出したりして過ごしていたら、他の前座の人もハーモニカを使ってフレーズを吹いていたので、何気なくそのフレーズを真似して吹いてしまったら、チラッとこちらをみて、「あっ、どうも。」と言われた。ぼくは来たときに比べ、かなりリラックスしていた。「ミュージシャンの方到着しました~。」その声とともに、3人の楽器を盛った人たちが中に入ってきた。会場全体が拍手に包まれた。ついに対面だ。キャロルのギターの人とプロのハーモニカの妹尾さんともう一人の人。どれがどの人かわからなかったが、松葉杖をついた髪の長い人、クラシックのバイオリン奏者のような雰囲気の人、そして、テンガロンハットを被ったかなりの雰囲気を持った人の3人だった。これはなんかすごそうだなと思った。おじさんと3人は、割りとすぐにリハーサルを始めた。ギターを持っていない人が妹尾さんだとわかった。残りの二人は二人ともギターを持っていたので、キャロルのギターの人がどちらかがまだわからなかった。でも、3人がどんな演奏をするのかとても楽しみだった。演奏が始まると、ハーモニカの音に耳を奪われまくった。なんだこれは!これがぼくと同じ種類のハーモニカなのか!かっこよかった。かっこよすぎて困った。枯れた渋いブルージィーな音が、バレエスタジオ内に響き渡っていた。これがプロか。ぼくは、本物を思い知らされた。2人のギターの人も素敵だった。出音が違った。プロ、そして、東京はすごいんだなと思った。リハーサルが終わり、おじさんと3人の会話を聞いて、クラシックのバイオリンとか弾いてそうな雰囲気の人がキャロルのギター『内海利勝』さんということがわかった。ハーモニカは『妹尾隆一郎』さん。そして、テンガロンの雰囲気抜群の方が、トランザムというバンドの『西濱哲男』さんだった。今はわかるが、この時トランザムを知らなかったので、ピンとはこなかったが、西濱さんの声がいい声過ぎて、ミーハーなぼくも、もはや、知名度などはどうでもよくなっていた。どうやって時間を過ごしたかまったく覚えていないが、時間もかなり経ち、いよいよコンサートが始まった。前座の順番はたしかぼくたちが一番最後だった。二番目の人は、ファーのついた上着を着ながらやっていて、汗をかきまくっていた。2組ともぼくたちより年上の方たちだったと思う。いよいよぼくたちの番だ。2曲やるのだが、1曲は見田くんが一人でオリジナル『16号』を歌った。「じゅーろくごー、ひたはしーれー」その時初めて聴いたが、かっこいい曲だった。会場の反応もますまずだったように思う。そして2曲目。ついにぼくは、東京の、プロのコンサートを観に来た人たちの前で演奏する瞬間をむかえた。着ていたスウェットを脱ぎ、懸賞で当てた、斉藤和義さんがやっていた『seven』というバンドのTシャツをなり、ぼくはステージにむかった。見田くんと何度も演奏してきた、『山崎まさよし』さんの『月明かりに照らされて』という曲を演奏した。ハーモニカをふんだんに盛り込んだ早いパッセージの名曲で、見田くんとの息はこの頃から絶妙に合っており、ぼくはがむしゃらにだが、とても楽しく演奏しきれた。見田くんは相変わらず落ち着いていた。会場の反応は、覚えていない。ぼくの東京デビューは、こうして無事に終わった。それから、少し休憩を挟んで、あの3人『BLUES FILE No.1』の演奏が始まった。『月のない夜に』という曲からだった。内海さんの少し癖のある歌がかっこよかった。妹尾さんは、しゃがれた音を歌にからめつけてあそんでいるようだった。西濱さんのハモりも声的にただのコーラスにおさまらない独特なもので素敵だった。これか!プロってこういう感じか!50人くらいでいっぱいの会場だったので、とても近くで観ることができ、プロの技をどんなかたちでも盗もうと必死になっていたが、始まった瞬間、リハーサルとはまったく違う雰囲気に圧倒されて、ぼくはただただ楽しんでいた。2、3曲目にトラブルは起きた。バチバチ!という音がスピーカーから響いた。「あれ?どうしたのこれ。いったん切ろうか。」西濱さんがいった。会場はとてもピリリとした空気になった。なんだなんだ、何が起きたんだ。バレエスタジオとおじさんの謎もまだ解明できていなかったぼくは、新たな謎に直面し、会場の雰囲気も重くなったため、どんよりとした気持ちになった。このまま音が出なくなって3人が怒って帰っちゃったらどうしよう、お客さんも金返せみたいになったらどうしよう、ぼくもなにか責任をおわなければならなくなるんじゃないだろうか、だってさっき演奏させてもらったときどっかに触ったからこうなったかもしれないし、どうしようどうしよう、怒ってる?誰か怒ってる?西濱さん?内海さん?誰怒ってるの誰?ぼくが1人で混乱の真っ只中に差し掛かりそうになったとき、「こういうことよくあるのよー。もうー。音でない音でないと思ったら電池入ってなかったとか、電源入ってなかったとか。すぐ出るからちょっと待っててねー。」妹尾さんが会場の雰囲気を一気に明るくしてくれた。妹尾さん、何て素敵なんですかあなたは。ありがとうございます。ありがとうございます。はっきりいって、田舎から出てきて1曲歌っただけの佐野少年にはなんの責任もあるわけないので、ありがとうございますというのも烏滸がましいくらいなのだが、妹尾さんの一言は、このコンサートをある意味救ってくれていた。その後すぐに原因がわかり、コンサートは再開した。その後は『forever』という西濱さんの歌全開の彼のオリジナルや、『シャイニングロード』という内海さんオリジナルの珠玉のバラードなど、ブルースのみならずいろんな曲が演奏され、アンコールまで大変盛り上がって、みんなが笑顔になってコンサートは終了した。とても楽しかった。楽しい時間だった。コンサート後は、片付けなど手伝い、打ち上げをその場で行うということだったので、見田くんとぼくも残って参加することにさせてもらった。打ち上げ準備の途中、なにもすることがなかったぼくのところにおじさんが来て、「妹尾さんにハーモニカ教えてもらいなよ、来て来て。」と、ぼくを妹尾さんのところに連れてってくれた。妹尾さんは、「へー、やってるの?どれ、吹いてみて。」いきなりで緊張したが、ぼくは今できる一番難しいことを吹こうと必死でアピールした。「わかったわかった。まず、穴にしっかりと息を入れる練習しよう。ストローありますー?」スタジオのキッチンにストローをもらいにいって妹尾さんのところに戻ると、「ストローに息いれてみて。」と言われた。ぼくは、ストローを楽器のようにならせばなんかすごいと思われると思って、変な吹き方をして、ブー-っと変な音をならしたのだが、「いや違う違う、もっと普通に吹いて。」と言われた。今度は普通に吹くと、「そうそう、それくらいでいいんだよ。じゅうぶんなの。それでこう吹けばじゅうぶんいい音がなるんだよ。」と、ハーモニカを持ち、妹尾さんはプーッととてもいい音を出して見せた。ぼくは、妹尾さんにいいところを見せようと必死に力任せに吹いていたのだが、そんなことは必要ないんだよと、なにもわかっていないぼくに、とてもわかりやすく説明してくれた。「わ、わかりました。ありがとうございました!」ぼくは根本的に自分のハーモニカを改革され、うれしいやら悲しいやらで、今はこの方から学ぶ前に自分で練習してからまた教えてもらおうと妹尾講座を勝手に終了しようとしたら、「待って待って、まだまだ終わんないよ。ほらまだやろうよ。」といって、妹尾さんは、誰かもわからない下手くそな高校生に、打ち上げが始まってからもずーっとぼくに教え続けてくれた。たまにおじさんが来て、どう?みたいにちょっかいを出してきたり、内海さんも話しかけてきてくれたりして、なんだかとても幸せな時間だった。その時間でもちろん劇的にうまくはなるわけがなかったが、ハーモニカのことをこの時かなり知ることができた。ぼくはとても間違っていた。間違いを正していただいた妹尾さんに改めてお礼を言いたい。宴もたけなわてきな雰囲気になり、ぼくは、見田くんと見田くんの家に帰って泊まって翌日静岡に帰った。部活は、というか、顧問の先生は、キャプテンのおかげで、「岳、お前もう大丈夫か?」みたいな感じだった。セーフだった。その後も毎日部活を続け、学園祭では、友人と『月明かりに照らされて』をやったり、見田くんがきて学校の屋上で演奏したり、人前で演奏する機会も多少はあったぼくにまた、大舞台がやってきた。見田くんから、またあのおじさんからブルースファイルの前座を頼まれたというのだ。前回は3人だけだったが、今度は、ブルースファイルのフルメンバー、ベースとドラムも加わってやるという。高校3年の夏だった。受験生にとって、とても大事な時期だった。今考えると、よく親は許したなと思う。でも、ぼくはどう説得したかわからないが、これが終わったらしっかりやるからみたいなありふれた言葉を投げかけたのだと思うが、今度は、同級生の、ベース『清裕介』くんと、ドラムの『池田しげのぶ』くんに、ベースとドラムの人もいるからとかなんとかいって頼んで、3人で、また鈍行でゆっくりと、華の都へ向かったのだった。見田くんちに泊めてもらい、今度は、マンションの広いエントランスを会場にして行われた。エントランスでやるとか、マンションで夜だったから音とかもあれだろうし、あれはなんであんなことが可能だったのか全然わからないのだが、お客さんは100人ぐらいいただろうか。バレエスタジオよりも大きな規模だった。今回は前座はぼくたちだけだった。ぼくと見田くんは、曲をやる前に、コード二つくらいでハーモニカを自由に吹くという、ハーモニカのプロの演奏前に、ハーモニカがうまくなければ全く面白くないことに挑戦してしまい、変な雰囲気になったまま曲をやって、あまり手応えのないまま演奏を終えた。せっかく来てくれた池田くんと清くんに申し訳なかった。でも、ブルースファイルの演奏は素晴らしく、楽しかったし、ベースの『荒巻茂生』さんは空き時間に、清くんのウッドベースに興味を示してくれて、かっこいいフレーズを結構長く弾いてくれて、清くんも、荒巻さんが弾いてくれたベースといって帰ってからも喜んでいて、何だかんだ楽しい思い出である。挑戦も失敗したかもしれないが、なんか嫌な思い出になっていないのは、挑戦したことが楽しかったのだと思う。この時の打ち上げで、妹尾さんと西濱さんが、「松延さんて、名刺もらって、それに博士って書いてあったけど、何者なのかな?なんだろうね。」と言っていて、ちょうど通ったおじさんに、「あっ、ねえねえ、松延さん、松延さんて、なに博士?」と聞き、「農学博士です。」とおじさんが答えるという事件があった。あのおじさんは、農学博士だったのだ。農学博士がなにをするか全くわからなかったが、バレエスタジオの入り口のところからそうなのだが、なんかすごい人なんだなと引き続き思った。ぼくが大学に入り、東京に出てきて(住んでるのは埼玉)、見田くんと毎日遊んでるうちに、そのおじさん、『松延康』さんのところに通うようになった。松延さんのお姉さんがバレエスタジオをやっており、だから、あのときの会場は、お姉さんのバレエスタジオだったのだが、そこのバレエスタジオの発表会の手伝いにいったり、バレエスタジオでのコンサートの前座を何度もやらせてもらったり、施設に演奏に行ったり、松延さんの教えている専門学校に演奏しに行ったり、原宿にいまもまだあるのか?新潟館みたいなとこに演奏にいったり、なんかほんとに松延さんとよく遊んでもらった。ずーっと松延さんと遊んでた。松延さんは、ぼくたちにほんとによくしてくれた。ぼくの師匠の続木さんをいっしょに観に行って、すぐにバレエスタジオのコンサートの話をして、3ヶ月後くらいに実現したり、行きつけのライブバーに紹介してくれてライブできるようにしてくれたり、ぼくたちが喜ぶようなことをたくさんしてくれた。ぼくらは、松延さんの手伝いみたいなことをやりながら、音響のこととか、会場のセッティングのこととか、なんか普段学べないようなことをたくさん教えてもらって、今それがとても役立っている。富士宮に演奏しに来てくれたりもした。そのときは松延さんのお姉さんも来てくれた。ぼくらよりも会場を盛り上げていた。ぼくらが今あるのは松延さんのおかげといっても言い過ぎではない。ほんとにお世話になった。ぼくらはぼくらでそれなりになんたかんだ忙しくなって、松延さんはテレビにもよく出るようになったりしてすごく忙しくなって、今たまに松延さんがライブに来てくれるときに会うくらいしかなくなってしまったけど、忙しいのに来てくれることがすごくうれしいし、なんかもっと定期的に会いたいなあと結構ずっと思っている。実際会うよりテレビで会うことの方が多いけども、松延さんのやさしさに、はっきりいって、これからも甘えたい。そして、ちょっとずつでも、ぼくらの成長をみせていきたい。まとまらないが、mitatakeにとって、『松延康』は、かけがえのない農学博士だ。またいっしょに、内海さんの名曲『シャイニングロード』を演奏したい。



松延康さんは、


1957年東京生まれ。国文科志望の高3の秋、彼女の「獣医さんって素敵」の一言で志を翻し獣医学部を受験し失敗。獣医になれないまま現在に至る。4年間のプータローの後、北里大学獣医畜産学部入学。同大学院にて農学博士。青森中央短期大学専任講師、看板職人、ガードマン、国立精神神経センター研究員を経て有限会社アート・アンド・エデュケーションま組設立。理科教育研究フォーラム夢・サイエンス代表。小学校理科専科、中学校理科教諭として学校教育現場での実績もある。北海道から沖縄まで、幼稚園、小学校科学館等を中心に、子どもたちばかりでなく、教員、シニアをも対象に年間80カ所120クラス以上の理科実験授業を展開している。テレビ・雑誌、CM等、メディアでも幅広く活動している。


□ テレビ・ラジオ出演

□NHK教育テレビ「となりの子育て」
□日本テレビ「世界一受けたい授業」「トリックハンター」「うわっ!ダマされた大賞!」  「マツコの月曜から夜更かし」「ドキドキMAXランキング」
 □フジテレビ「ノンストップ」
 □テレビ東京「ソレダメ!」「たけしのニッポンのミカタ」「これ考えたヒト天才じゃね!」  「ウソのような本当の瞬間!」「世界の衝撃ストーリー」
 □ テレビ朝日「Qさま!!」「いきなり黄金伝説」
 □ TBSラジオ 「土曜ワイドラジオTOKYO永六輔その世界」 等、多数

□ CM

ダンロップスタッドレスタイヤ「WINTER MAXX」インターネットCM PV監修・出演

□ 企業・学会イベント

日本電気(ガリレオクラブ、ティーチャーズ・サイエンス・ラボ) 住友生命保険(スミセイアフタースクール)、東急ハンズ(GW、夏休み企画) 日本医学会総会2019 くすりステージスペシャルゲスト、等

□ 著書・監修

実務教育出版「松延康の理科実験ブック」 フレーベル館キンダーブック「しぜん」 プレジデント社「料理+理科」 等

□ 新聞・雑誌、等

読売新聞(全国版:駆ける、等)、朝日、毎日新聞、地方紙に記事多数 四谷大塚「Dream Navi」 DNラボ、プレジデント社「プレジデントFamily」 薬学部・薬剤師向け情報誌「MIL」、少年写真新聞「科学の面白さを伝える人々」 都市出版「東京人」特集生命科学の開拓者たれ、扶桑社「文具自慢」プロの愛用品を大公開、各地のメディア、フリーペーパー等、記事多数


こんな人です。松延さんの実験授業ぼくも受けたいです。テレビにもよく出ていて面白いので、是非松延さんの出ている番組チェックしてみてください。

松延さん、一度書いていただいたのに、中止後に再度書いてくださり、本当にありがとうございました。













いまだに着てます。



2020年3月17日火曜日

松延康さん 農学博士

もう20年くらい前。知り合いの中古楽器屋にふらりと立ち寄ると、アコギ一本で歌っている若者がいた。知らない曲だったけど、気持ちいいメロディーで国道16号がどうのこうのという歌詞だった。いいな、と思った。というか、すごいな、と思った。ちゃんと世界があった。たまたまBlues File No1(内海利勝、西浜哲男、妹尾隆一郎)のライブを企画していたので、前座に出ないかと声をかけた。それが見田だった。大学生くらいかなと思っていたら中学を出たばかりだと聞いて驚いた。第一印象は、おっさんだった。そして、後から聞いた話だけど、見田はどっかの調子いいオヤジが適当なことを言ってやがる、と思ったらしい。


それでも話は進み、ライブ当日。見田があどけない顔をした男の子を連れてきた。それが岳。こっちはまだ中学生で十分通用する子だった。最初の挨拶で「妹尾さんって、HOHNERのカタログに載っているあの妹尾さんですか?」みたいなこと言うのも顔に似合っててかわいかった。その日が、mitatakeの初舞台になった。ライブの後、岳は妹尾さんの前に呆けたような顔をしてちょこんと座っていた。おっさんの見田は、内海さんや西濱さんの前では、やっぱり目をキラキラさせた年相応の男の子だった。ユニット名のない彼らに見田と岳だから、とりあえずmitatakeでいいよって言ったのは僕だ。まさか、こんな安直な名前でずっとやるとは思っていなかった。


 その日から、彼らとは何十回も一緒にイベントやったり遊んだりしてきた。東大和のライブハウス、原宿の新潟のサテライト館、国立の専門学校、小平のバレエスタジオ、富士宮での初ライブも一緒に行ったね。なんでだかドイツ人がいて、彼にドイツ語で挨拶させて、それを僕が適当に通訳したんだけど「ドイツにはフジノミヤンゲンという街があって私はそこから来ました。ここが富士宮だと聞いてとても驚いています。同じような名前の街で素晴らしい演奏が聴けてとても嬉しいです。」みたいな適当なことを言ったら店の全員が信じちゃったのもおかしかった。そうそう、最初のCDのプロデュースをしてレコーディングに新潟にも行った。ふた回りくらい歳は違うけど、二人と一緒にいるのは本当に楽しかったし、僕は彼らが自慢だった。だから、もっと売れて欲しかったし、そうしてあげたかった。彼らにしてみれば、きっとあちこち引っ張り回されて大変だったと思う。 


そんな関係が10年ほど続いただろうか。いつしか、僕も仕事が忙しくなり、イベントを企画したりすることもなくなった。そして、彼らも大人になり、会う機会もだんだんと少くなり、そして、なくなった。風の便りに、二人それぞれが素晴らしいミュージシャンたちと一緒に活躍していることは知っていた。とても嬉しかった。もう一度言うけど、僕は彼らをとても自慢に思っているんだ。



見田っち、岳ちゃん。知り合って間もない頃、まだまだ子どもだった君たちは、僕のことを「なんかすごい人」のように勘違いしていた。で、僕は思ったんだよ。このかわいい二人にずっとずっと「なんかすごい人」って思われていたいってね。 


さて、今回のコンサートは流れてしまったけど、それはそれで残念だけど、でも、通過点の一つだ。近いうちに必ずあるはずの富士宮ワンマンで、しばらくご無沙汰のmitatakeに会えるのを楽しみにしてるよ。



2020年3月15日日曜日

小室等さんについての投稿 2

『いま生きているということ』というアルバムは、『夏が終る』を含む、10曲すべてが、谷川俊太郎さんの詞で、それに小室等さんが曲をつけているものだった。このアルバムは、ぼくが聴かなければならない、避けて通れない道なのだと思った。そして、今このときが、最良のタイミングなんだ、そう言われているような気がした。レコードに針を落とすと、ムーンライダーズの皆さんをバックに、ギターを掻き鳴らして歌う小室等さんの声がなんだか新鮮に聴こえた。何枚か小室等さんのCDや、レコードを聴いているのに新鮮だった。これは、このアルバムが、ぼくにとって、特別な意味を持っているということを意味しているという、証拠のような気がした。谷川俊太郎さんの詞に小室等さんの曲。これはもういいことはなんとなくわかっていたが、全体的にやはりいいのだ、ということを確認した。『モナ・リザ』という曲は、ぼくの中のそれまでの小室等さんのイメージを変えるもので、新しい小室等さんを発見できてうれしかった。『お早うの朝』や『高原』、タイトル曲の『いま生きているということ』は、23区コンサートで聴いていたので、もう名曲だということを知っていた。だが、オリジナルの音源を確認できて、ありがたかった。順番は逆なのだと思うが、このレコードのありがたさを感じた。全体を聴いて、とてもいいアルバムで、すきだと思った。side1と、side2。CDで通して聴くより、レコードで、ひっくり返して聴く方が、趣あるアルバムだなあと、当時のぼくはなんだかその感想を持っている自分に満足していたような気がする。でも、全体的にすきなアルバム、すきなアルバムなのだが、だがぼくは、ぼくにとってはやはり、『夏が終る』の存在感が圧倒的だった。矢野顕子さんのアルバムで聴いたあの衝撃は、一体なんだったのか。矢野さんのは矢野さんのでそれはそれなんだとは思うが、この小室等さんのオリジナルを聴くことで、なにかわかるんじゃないかと思って、信じて、このレコードを買ってからずっと、『いま生きているということ』というアルバムを聴くつもりのようで、どこかでぼくのなかでは『夏が終る』を聴く、いや、『夏が終る』を聴くことであの時の衝撃はなんだったのかを確認する、したい、という思いでいたのだと思った。side1の、最後の曲だった。5曲目だ。小室さんのギターで始まった。あせたーーようなーー、うすいーーあおぞらーーー、、、まさかとは思ったが、一瞬であの世界に入れた。そこからはあの世界に入ったことしか覚えてなくて、曲が終わったと同時だと思うが、現実の世界に引き戻された。うわー、なんだこれ、力すごいなーと思った。なんの楽器がなって、小室さんがどうやって歌って、どんな感じで曲が展開されて、どうやって終わったか全く覚えていなかった。ギターで始まったことしかわからなかった。ぼくは、この曲は、力、すごいな、ということが、理解、確認、できた。その後、機械的に何回か聴くうちに、あの世界に入らないで聴く方法を身につけ、どういう展開なのかとか、どこでどれがなってるのか、みたいなことがわかったのだが、まず、小室さんの歌が、他の9曲とは全然違う独特で鳥肌のたつ感じの雰囲気だということが確認できた。歌が、あの世界への案内人といった具合か。あと、ピアノの人が、なんか最初すごく中途半端なところ、つまり『ゆうすげ』という歌詞のとこで入ってくるけど、すぐ消える。で、本来ここらへんで入るんだろうな~というところでまた入ってくる。そのあとはなんだか一筋縄ではいかないような弾き具合でいて、結構あの世界に連れて行く手助けをしていることがわかった。この曲は、歌とギターとピアノだけしかいなかった。少ない編成でよくもまあこんな世界を作り出すというか、世界に連れて行くというか、なんというかだなーだった。なのだが、そういう、べつにどれがどこでどうなってみたいなのはなんとなく確認はできるのだが、あの世界に連れていかれる謎は、何度聴いても全然わからなかった。気を抜くといつだってあの世界に連れてかれるし、これはぼくなんかが解明できる謎ではないと、諦めた。もちろんいまだにわからない。『夏が終る』という曲は、すんごい力のある曲で、いいかわるいかわからないが、どっか違う中毒性のある世界に連れていってもらえる名曲だということで、落ち着いた。矢野顕子さんの『SUPER FOLK SONG』の一曲一曲のコメントの『夏が終る』のところを思い出してもう一度読むと、『、、、小室等さんのレコーディングでピアノを弾くようにと言われ、そこで弾いたのがこの曲でした。、、、』と書かれていた。『小室さん等事件』で、すっかりその部分を見落としていたが、そういうことだったのかと思った。このピアノは矢野顕子さん。なるほど。あの独特のプレイにも納得がいった。中学三年生のあのとき、しっかりとこれを読んでいれば、スムーズにこのアルバムにたどり着けて、スムーズに小室等さんを知れたような気がするが、小室等さんには申し訳ないが、それはそれで恥ずかしいけど面白いなあといま思う。ただ、そのコメントをしっかり読んでいたところで、この力のありすぎる曲を解明できたわけではない。この曲のすごさは、はかりしれない。その後、歌いたかったので、mitatakeで、『赤いクーペ』はカバーさせていただいて、CDにも入れさせていただいたが、『夏が終る』は、どうにも手のつけようがないし、歌える自信もないため、聴くだけにとどまっている。当時のことなどを思い出して、いま思うことなど交えて考えて書いてきたが、小室等さんとの、出会ってからのことを書きたいのに、出会う前のことは、序章的に書こうとしていただけなのに、かなり抑え気味にしているつもりだったのに、長くなりすぎて、『夏が終る』のことにもかなり触れてしまって、全然小室等さんに会えない。小室等さんに会いたかったが、会ったらこの何倍もの量になってしまうと思うので、悔しいが今回はここまでにしたいと思う。でも絶対何かの機会で小室等さんについて書きたい。早く出会いたい。なんでこんなにたくさんになってしまうかわからない。謎だ。小室等さんや小室等さんの曲は、ぼくにとって不思議なのだ。もうストレートに言おう。大好きなのだ。 こんなにすきでごめんなさい。





 翌日に書くといったのに、自分の都合で、投稿が2回にわかれ、2日後になってしまったことを、小室等さん、そして皆様にお詫びします。申し訳ございませんでした。



小室等さんは、コンサート多数されていますが、現在公開されている、岩井俊二監督の映画『ラストレター』にも出演されています。 ぼくも観に行こうと思いながら、まだ、観に行けてませんが、絶対行きます。皆さんも是非!
https://last-letter-movie.jp/sp/

小室等さんの情報もこちらからどうぞ。
コンサートも是非!!
https://office-khys.com/




2020年3月14日土曜日

小室等さんについての投稿 1

ぼくは、矢野顕子さんがすきだ。定期的に自分のCD棚の矢野顕子コーナーを見ては、にやにやする日々を送っている。矢野さんはいろんな人の曲を弾き語りでカバーしたアルバムを何枚も出している。音源化していないものも含めて、カバー曲の量は半端ではないが、その数の曲すべてが、自分の曲みたいになるからほんとにすごい。オリジナルが素敵なのは言うまでもないが、カバーは、元の曲が跡形もないくらいになったりしているものもあって、でもそれでいて元の曲の力もちゃんとどこかに残していて、ほんとに聴いていて楽しい。矢野さんのカバー弾き語りアルバムで、『SUPER FOLK SONG』という作品がある。もうまさに名盤で、このアルバムが一番すきという人も少なくないだろう。ぼくも大好きなアルバムだ。このアルバム製作時のドキュメンタリー映画があるくらいだ。人気だ。もちろんそのDVDをぼくは持っている。出会ったのは中学三年のときだった。受験はすぐそこだった気がする。矢野さんのベストアルバム『ひとつだけ/the very best of 矢野顕子』の次に買ったアルバムだった。ちなみに最初に買ったCDは、『children in the summer』のシングルだ。『SUPER FOLK SONG』の中には、ベストの中に入っていた曲もあったが、全体的に、こんなふうなのを聴いたことがなかった。衝撃的すぎた。中学の時なんて、歌とピアノだけの音源などほぼ聴いたことなかったような気がする。それが新鮮だったし、ピアノってすごいなあと思ったし、ピアノがまるで矢野さんの一部になっていると感じたし、なにもわからないなりにいろいろ衝撃を受けた。アルバムの中で、『夏が終る』という曲がある。『小室等』さんというシンガーソングライターが発表した曲で、詩人の『谷川俊太郎』さんの詞に、小室等さんが曲をつけたものだ。その頃は特に、詞にあまり関心がなかったと記憶しているが、それでもまずその詞に惹き付けられた。かるかや?おみなえしってなんだ。われもこー。とうすみとんぼ?射手座はわかるけど、よろいど。なぞのようなひとのうらぎり?聞いたことない言葉がたくさん出てきて、なんだろうなんだろうと思いながらも、この曲に出てくるのは美しい言葉たちだなあと思った。そして、中学三年の無知なぼくには不思議と感じたその言葉たちが乗るメロディーが、その言葉と合わさったときに、いい意味、というよりも、変な意味でもないが、ちょっと怖い意味でなのか、わからないが、どこかに連れていかれる錯覚にとらわれた。気持ちいいにはいいが不安みたいなものも雑ざったり、さみしさだったりもあったり、なんか悲しいものも感じたり、そんなようなものたちが曲が始まると徐々にだが、だだだだだだだだーーーーーーっと押し寄せてきて、きて、きて、きて、きて、ピークを迎えそうになると、カシオペア~はぁ~ン、、、チャン、チャン、チャン、チャン(ピアノの音)。と曲が終わり、それと同時に現実の世界に引き戻される。向こうにいるのはどちらかというと怖いような感じなのだが、現実に戻るとなにかそれはそれでさみしいような気持ちになる。夏が終るは、そんなとても不思議な不思議な曲で、中学三年のぼくをかなり惑わせた。なんか変だよなあ、きもちいいわるいなあ、どっちもあるなあ、と、アルバムを通して聴いても、この曲だけすごくひっかかった。谷川俊太郎さんは、教科書に出てきたので、知っていて、谷川俊太郎の詞は歌にもなっているのかーと思った。小室等さんのことは、全く知らなくて、この作曲者の名前のところをみてもピンとこず、『小室等』という名前は、ぼくの中に残らなかった。ひっかかる曲だったのに。中3という若さだからか。なんなのか。CDの一番後ろに矢野さんが一曲一曲コメントを書いているものを読んでいると、『夏が終る』のところに、『小室さん等のレコーディングで、、、、』と書いてあった。ぼーっと読んでいたぼくは、内容も読まずにそこだけ切り取り、矢野さんて小室さんとなんか関係あるんだなーと思った。ちょっと違う気するのになー、なんかまあわかりあえる部分とかやっぱりあるんだろうなー、あるのかなー、あるんだなーやっぱりー、ふたりともすごいしねー、どんな話するのかなー、などと思いながら、変な違和感を抱えつつ、他の曲のコメントもぼーっと読んでまたSUPER FOLK SONGを聴いた。それから二週間くらいたって、やっぱりなにかずっと違和感があって、ぼーっと読んでいたわりには頭から離れなかったあの『夏が終る』のコメントをもう一度読み直すと、さすがぼーっと読んでいただけあって、なんと『小室さん等のレコーディングで、、、、』ではなく、『小室等さんのレコーディングで、、、、』の間違いだった。ぼくは愕然とした。作曲者のところを確認すると、『小室等』と書いてある。そういえば、小室等という人が曲を書いているというのを、詞の谷川俊太郎さんを確認したときにいっしょにみたんだった、と思った。その『小室等』という人が作曲している『夏が終る』という曲のコメントに書いてあった、『小室等さんのレコーディングで、、、、』という部分を、ぼくは、『小室さん等のレコーディングで、、、、』と見間違えてしまった、一度作曲者を確認しているのにだ。どれだけぼーっと読んでいたのだろう。小室さん等ってなんだ。そんな言い方あるのか。小室さんやその仲間たちということなのか。仲間たちが等(など)か。で、だ。その当時の小室さんと言えば、日本の音楽チャートを独占的に盛り上げてらっしゃった、街中やテレビでは毎日のように源泉かけ流し的に流れていた音楽をつくっていた、TM NETWORKでもお馴染みの、『小室哲哉』さんだった。小室等さんがかいた曲なのに、小室さん等の、と見間違えるだけでかなりの恥ずかしさなのに、ぼくは、小室とみるやいなや、小室さんを等さんではなく、哲哉さんと勘違いし、つまり、『小室等さんのレコーディングで、、、、』ではなく、『小室哲哉さん等のレコーディングで、、、、』というふうに勝手気ままに解釈して思い込んで、そのまま2週間も過ごしてしまった。小室哲哉さん等にって、小室哲哉さんとその仲間たちって、そうだとしたらそれは、TRFとかglobeとか鈴木亜美さんとか華原朋美さんとかそういうことなのか。そのレコーディングなのか。矢野さんが小室さんの曲のレコーディング。今考えるとそれはそれでなんだか賑やかで楽しそうなのだが、気づいた瞬間から、恥ずかしさはどんどん加速し、なかなかスピードは緩まず、どこまでもどこまでもぼくの中を走り続け、ぼくを痛めつけ続けた。中学三年生。それまでの人生での恥ずかしさの集大成だったと思う。こんなこと誰にも言えなかった。というか、今の今まで誰にも言ったことがないと思う。とても恥ずかしかった。中学生なので、友達に言っても、基本的に誰も小室等さんは知らないだろうし、矢野さんにも興味がある人はいなそうだし、小室哲哉さんはみんな知ってるだろうから、バカにされることはなさそうだが、でも、それでも、ぼくはとてもとても恥ずかしい気持ちになった。あっ、いや、等さんを等(など)と見間違えることはやはりとても恥ずかしいことでやはりバカにされるだろう。よかった。友達に言わなくてよかった。どう考えても全国的にみて恥ずかしい事象だ。今ここで公表しているのもいいのか悪いのかが全然わからないし、いまだにすごく恥ずかしい。ひっかかる曲をかいたのにひっかからなかったはずの『小室等』という名前は、このとても恥ずかしい人に言えない勘違いによって、ぼくの中に深く深く刻まれ、同時に『夏が終る』という曲も、このことによってさらになにかもっと特別な曲になっていった。中学を卒業し、高校に入り、山崎まさよしさん等を聴くようになり、、、、あれ?『等(など)』が自然に出てきた。この場合の『等』は、斉藤和義さんとか、堂島孝平さんとか、スガシカオさんとか当時若手の男性シンガーソングライターの意味だ。等、、、なるほど。で、山崎まさよしさん等を聴いたり、洋楽等も多少、そして矢野さんの影響で少しジャズ等も聴いて、音楽の幅を広げつつ、矢野さんの音楽も随時チェックしながら高3の冬、またもや受験真っ只中に、彼女の弾き語りカバー3枚目の『home girl Journey』を手にいれた。これもやはり名盤だった。『SUPER FOLK SONG』と同じくらい、いや、ぼくの中では、越えていたかもしれない、そのくらいよいアルバムだった。そんな、高校三年の受験勉強浸けでなくてはならないはずのぼくを虜にした『home girl Journey』の中には、また、『小室等』さんの曲が入っていた。詞は、また、谷川俊太郎さんだった。あれから三年が経っていた。同じ受験シーズンだ。作詞 谷川俊太郎、作曲 小室等。岳彦よ、やり直せ。そう言われているのだと思った。『赤いクーペ』というその曲は、『夏が終る』とはまた違った意味で力のある曲だった。谷川俊太郎さんの詞は、高3のぼくには意味が理解できなかったのだが、なんといってもモーツァルトがでてきてなんかすごいと思った。しかもうたったりしてくれる。火の山!ゆるやかにほどける道。時代、世界、いのち。バックミラー、フロントグラス、サンルーフ。意味はわからなかったが、言葉が力を持っているみたいな感じはわかった。というか感じた。で、その言葉をメロディーがテンポよく僕に伝えてくれる。詞の端々から、車で走っている情景を浮かべることができた。メロディーの端々から、晴れていて、雲うつすっていってるけどあまり雲のない空で、山道を気持ちのいい雰囲気で走ってることを想像しながら聴いていた。心地がいい。悲しみは走りつづけるっていうところで、少し悲しくはなるが、幸せを連れるので、またなんか前向きになれる。そんなような感じで聴いていたと思う。夏が終ると違う、静かな心地よさがぼくを包んだ。曲のコメントに矢野さんは、小室等さんに対して、お元気ですか?と言っていて、2曲もカバーを録音しているし、矢野さんにとって、小室等さんという人は、大事な人なんだなあと思った。そして、矢野さんに大事に思われて、小室等さんいいなー羨ましいなーと思った。『赤いクーペ』は、アルバムの中の、同じく谷川俊太郎さんの詞で、息子さんの谷川賢作さん作曲の『DiVa』の名曲『さようなら』とともに、お気に入りになった。よくよくよく聴いた。その後、なんとか大学に合格して、静岡の田舎を離れ、ぼくは東京に出てきた(住んでいるのは埼玉)。東京には、音楽がたくさんに溢れていた。静岡の田舎にはないものがたくさんあった。ぼくは欲を剥き出して、CDやレコードを買い漁った。そして聴いた。だがなぜだろう。気になって気になってしょうがなかったはずの、『小室等』さんの、『夏が終る』と『赤いクーペ』の入っているCDは、買うことはなかった。ほんとによくわからない。カバーアルバムに入っていた大貫妙子さんや山下達郎さんのものは買ったのに、小室等さんのものは買っていなかった。今思うととても不思議だ。それでも、しばらくして、小室等さんの『23区コンサート/東京旅行』というレコードを買った。もっと普通のレコードかCDを買えばよかったと思うが、小室等さんが23区でコンサートをしたものをたまたま録音していて、よいのでレコードにしてみました、というこのアルバムは、それぞれの会場で迎えたゲストのみなさんとの演奏や、お話を秒単位で収録していて、とても変なライブアルバムだった。アルバムは谷川俊太郎さんの詞の朗読から始まる。変だ。曲を挟んでチューニングも収録しており、曲中にはこのコンサートは盛り上がらないから無理に手拍子をされると戸惑うみたいなことをいってる。そのあと矢野顕子さんがおばあちゃんのお話で登場する。曲と話を交互だったり続けてだったりで納められていて、たっぷり2時間二枚組だ。でも、最初は長いし変だと思ったのだが、このアルバムには、聴いているうちになんだかはまり、話も面白くて、最終的にかなり聴いた。小室等さんは、聴いたことのある曲を何曲も歌っている人だということもわかった。そして、小室等さんの歌を初めてこのアルバムで聴いたのだが、なんというか、うまく言えないのだが、その、まあ、はっきりいって、素敵だった。声がとてもよくて、好みで、こんな声、この人しか出せないから、声を聴いただけですぐわかるなあと思った。で、歌唱は深みがあり、歌の作り方が丁寧で美しくって、なんだかぼくの胸を打ってきて、とにかく心地好かった。でもその心地よさの次には陽水のギャラが一万、ぼくが二万でした、みたいな話がでてきて、なかなか歌に浸らせてもらえなかった。でもそれが面白かった。東京に出てきて(住んでいるのは埼玉県川越市)、小室等さんのことは色々調べて日本の音楽界になくてはならないとかどんな人かわかってはいて、もう中3の時のようなことは間違っても起きないそんな状態の認識にはなってはいたのだが、ようやく小室等さんをこのアルバムによって知ることができた気がした。その後、小室等さんのCDを数枚買って聴いたあと、とうとうぼくは、あの、『夏が終る』の入った、『いま生きているということ』というアルバムを手に入れた。

2020年3月12日木曜日

小室等さん シンガーソングライター

こんなにもハーモニカ力があって、
こんなにも歌唱力があって、
 こんなにもギター力があって、
こんなにもポップス力があって、
それでいて渋さ力もあって。
 mitatakeを聴きに行こう!
みんなで聴きに行って、 みんなでmitatakeをもっともっとBIGにしよう!!

 小室等



2020年3月10日火曜日

市川和則さんについての投稿

ぼくが大学進学のために東京(住んでるのは埼玉)に来てからというもの、見田くんとほんとに毎週遊んでいた。見田くんが、そのたびに、よく市川くんについて話してくれていた。見田くんはそのとき、『かーくん』と呼んでいたと思う。かーくんすごいよ。ギターうまいよ。今度3人で遊ぼう。記憶は曖昧だが、そんな感じだったと思う。市川くんは、ぼくらの中学の先輩だ。そしてぼくらのひとつ上だ。当時、専門学校でギターを学んでいた。ぼくよりも一年先に東京に来ていたのだ。ぼくは市川くんとは、中学の時から全然話したことがなかった。呼び方も和則先輩、とよそよそしい。市川先輩よりは近い感じはするが、まあでもよそよそしい。しかも、そんなふうに本人を呼ぶ機会はほぼなかった気がする。それだけしゃべったことがなかったのだ。仲のいい先輩の友達ではあったが、和則先輩が、どんな人なのか、なにが好きか、なにが得意か、どんな人と付き合っていたか、どんな私服を着ていたか、などなど、中学の時に気になることはそんな感じだったか、それらの印象が全くなかったため、和則先輩が、まさかギターなんて派手なことをやるとは思えなかった。後から考えると、見田くんのギターの師匠は市川くんのお父さんなので、市川くんがギターをやるのは必然なのだが。中学二年の、冬の寒い午前中、二時間目が終わったくらいの休み時間だったか。仲のいい先輩がぼくのクラスの廊下に来て、「岳、みてみて、日向小次郎!岳もやってみ、日向小次郎!」と言って体操服の半袖を肩までまくってへらへらしていたときに、後ろでいっしょに肩まで半袖をまくって、同じくへらへらしていたのが和則先輩なのだ。はっきりいってその印象しかなかった。ちなみに仲のいい先輩はバスケ部。和則先輩はテニス部だ。*1 それをやるならせめてサッカーをやっていてほしいとの思いからか、ぼくがそのとき日向小次郎になることはなかったのだが、そのときも、和則先輩とは一言もしゃべっていない。和則先輩こんな感じでふざけたりするんだなーと思ったような気がする。仲のいい先輩が日向小次郎なら、和則先輩は、半歩下がっていたため、『サブ日向小次郎』といった具合だった。そのサブ日向小次郎が、まさかギターなんて。それでも、毎回見田くんは、かーくんに会うことを勧めてくる。ぼくは、見田くんと2人で遊ぶ方が楽しい気がしていたと思うので、あまり和則先輩には会いたくなかったと言うと言い過ぎかもしれないが、そんな感じはあったと思う。まあでも流れは和則先輩に会う方向に流れていった。見田くんの家だったか、和則先輩の家だったか、最初にあった場所も忘れてしまったが、久々に会った和則先輩は、とてもやさしく、自然な人当たりの良さで、すごく会話しやすい、いっしょにいてとても楽しい人だった。中学の時からか、高校、あるいは東京に来て変わったのか、わからないが、すぐに和則先輩がすきになった。そして、和則先輩は、ギターがものすごくうまかった。今の市川くんはほぼ弾かないと思うが、当時はエレキギターがメインで、しかもとんでもなく上手で、あれ弾いてー、これ弾いてー、と、ずっとギターを弾かせていた記憶がある。サブ日向小次郎として、ぼくの記憶の片隅にこびりついていた程度だった和則先輩は、1日で、とても魅力的な人に様変わりした。和則先輩のやさしさに甘えまくって、その日のうちに、敬語はとれた。かーくんとふざけて呼ぶ度に、頭を軽く叩かれ続けたので、和則先輩という呼び方はしばらくは変わらなかった気がするが、それからは、3人でも遊ぶし、和則先輩と2人でもよく遊んだ。いろんなCDを聴いたり、ギターとハーモニカで遊んだり、自分がこういうことをやりたいから今こうしてるんだという話もよくしてくれた。専門学校にいる友達がギタリストのことを呼ぶときに、ラストネームだけで呼ぶのが気に入らないみたいな下らない話もしてくれた。パット・メセニーならメセニー、ラリー・カールトンならカールトンということだ。この話はけっこう印象的で、ぼくはそのあとからは、意識的にしっかりと、パット・メセニー、ラリー・カールトンと呼ぶようにしている。パットメセニーは、たまにメセニーと呼んでしまうこともあるかもしれない。気をつけていきたい。birdさんの曲のギターのカッティングがかっこよくて、できるようになりたいといって教えてもらったこともあった。和則先輩の家に行く度に、和則先輩のギターを荒っぽく借りて、何回もやったが、「一歩一歩テンポよく歩くイメージで!」という素晴らしいアドバイスも虚しく、結局弾けなかった。ギターって難しいなと思った。少し経って、専門学校を卒業してから、学校で習っていた先生とスタジオに入って練習しているという時期があった。お互いにソロを取り合って話して終わるというものだったらしいが、その練習の話や先生の話をよくしてくれていた。和則先輩は、「ギターはバッキングできるけど、ハーモニカはできないから辛いよね。」と言っていた。確かになー、と思った。それからかなりの年月が経ってから、あるレコーディングの現場に行って、ギターの人と話していたら、その人が市川くんの先生だった。先生の話を何度も何度も聞いていたので、「おおおーーーーっ、先生ーーーーっ!!!!」と、すごい大きい声で驚いたら、プロデューサーに鋭すぎる目で睨まれて、そのあとは小声で話したことをよく覚えている。その日は、プロデューサーのぼくに対する注文もきつかった。話せば彼も驚いてくれるだろうと、一瞬説明しかかったが、いまいちわかり辛いため、断念した。和則先輩は、ぼくがいまだに住んでいる川越にも来て、ラーメンと餃子を2人で食べたこともあった。もちろんかーくんを勧めてくれた見田くんも、夜な夜なよく会っているようだった。その後は、いっしょにライブするようになったりもして、仲は深まった。始めたばかりの『羊毛とおはな』のライブにmitatakeを誘ってくれて、mitatake初?の、知り合いのとことかではない、普通のライブハウスデビューをさせてくれたのも、和則先輩だった。それから市川くんはほんとにがんばって、羊毛とおはなは誰もが知る二人組になった。ぼくは、徐々に市川くんがみんなにとられるようなさみしい感覚に少しなったりしたが、でもほんとにうれしかった。市川くんは有名になっても変わらずやさしくて、ぼくがいつものように終電をなくして助けを求めたら、「今から出掛けて帰らないから、適当に寝てっていいよ。」と、本人不在でも泊めてくれたり、GLAYのTERUさんにコンサートに招待してもらったときに関係ないぼくまで連れていってくれたり、羊毛とおはなのライブやレコーディングで、ぼくのハーモニカを使ってくれたり、ぼくは、市川くんにとてもお世話になってきた。見田くんもそうだろう。ジャンクフジヤマのライブの度にエレキ毎回借りてたし。市川くんに、ありがとうとかはほんとに言いづらいので、こういうときに言ってしまいたいものである。市川くん、ありがとう。お世話になってます。市川くんと見田くんは、数年前から、『BOCOS』というユニットを始めた。BOCOS はすぐに活躍して、いろんなフェスでやったり、CDも出したり、ドラマの音楽とかもやったりしてるのか。見田くんばっかりフェス出てずるいじゃんーと言ったりしてはいるが、ぼくよりもずっと市川くんと仲良く、夜な夜な密会を繰り返していた2人が、恐らく長年の夢であった、二人でなにかやるというのを叶えられて、ぼくはそれもうれしく思っている。まあでもぼくが二人の活動でほんとに悔しいと思ったのが、地元富士宮のイオンでBOCOSが演奏したときに、司会が、『久保ひとみ』さんだったことだ。久保ひとみさんは、静岡のローカルタレント?という位置づけでいいのかわからないが、ニュースにバラエティーにCMにと、テレビで見ない日はない、ラジオもやっている、ちょー人気者だ。静岡のスターである。毎日毎日、静岡県内のお茶の間に笑いを届け続けている。大好きである。静岡に帰って久保さんをみると安心する。その久保さんとごいっしょしたのだ、あの二人は!羨ましすぎる。ラジオかテレビの中継だったような気がするが、確かではない。でも、久保さんとごいっしょしたのは確かだ。何度考えても羨ましくて悔しい。久保さんとまたごいっしょするときは、ぼくも誘ってほしい。頼む、頼む市川くん、頼む!市川くんといえば、ぼくは、羊毛とおはなの、『おはなさん高岡凱旋ライブ』に、市川くんの『お話し相手』として、ついていったことがある。10年以上前だ。その様子を全四回にまとめた日記がある。アラピアという、高岡の人に言うと全員に、大変だねーと言われる宿泊施設に泊まったり、おはなさんの不安な運転で移動したり、富山ブラックを食べに連れていかれたり、あたかも3人と共に旅をしている気分を味わえる仕上がりになっている。機会があれば、市川くんのことをもっとよく知れる内容になっているので、是非読んでいただきたい。mitatakeは、ある時期からおもいっきり突き放されはしたが、羊毛とおはな、そして、市川くんと共に歩ませていただいてきた。最近市川くんには全く会わなくてさみしい気はするが、ぼくのことを3日おきくらいには思い出して気にかけてくれているだろう。そうぼくは信じている。ぼくのほうは、市川くんのことを考えない日なんてほぼない。だって、『岳彦』と、名前をフルで呼んでくれるのは、親と姉と親戚と市川くんだけだ。しかも正確なイントネーションで。BOCOSで、完全に見田くんに市川くんを独占されてる感じになっているが、ぼくだって市川くんと会いたいし遊びたい。今年は誘ってみよう。何回も断られそうだがめげずにがんばろう。いろんな方のサポートなどでほんとに毎日忙しそうな市川くん。体調に気をつけ、引き続きがんばってほしいものである。そして、mitatakeとも佐野岳彦とも末長くどうか宜しくお願いいたします。 


羊毛とおはなの日が今年も盛り上がりそうです。
今年の内容が発表されました。今年も4月8日は羊毛とおはなを聴いて過ごしましょう。
https://gamp.ameblo.jp/youmoutoohana/entry-12581015566.html

その他、市川くんは、見田くんとのBOCOSや、いろんな方のサポートでライブをしています。探して是非行ってみてください。素敵です。ぼくも久しぶりにどこか観に行きたいと思います。
http://youmoutoohana.com/









市川くんと写真を撮る時間がなかったので、思いでの写真や品を公開させていただきます。

3枚目は、公開していいのかわかりませんが、渋谷で羊毛とおはなをやったときのものです。市川くん、許してください。

5枚目は、左から市川くん、ぼく、見田くんです。地元富士宮の先輩がやっていたバーでの演奏時です。エレキです。

6枚目は、市川くんがフライヤーを作るときに描いてくれたmitatakeです。ぼくだけフライヤーのとは違う絵です。フライヤーのも好きですが、これもかなり気に入ってます。


そして、市川くんが、限定公開してくれている、mitatakeゲスト回の、『羊毛とおはなラジオ』もまだの方は是非!
https://t.co/ebTStpXviu



市川くん、忙しいなか、温かく深みあるコメント、本当にありがとうございました!!!


*1     更新翌日、BOCOSくんから、羊毛師匠は、陸上部(途中でなくなった)からのパソコン部(帰宅部)だ、という情報いただきました。完全に勘違いしてました。市川くん失礼いたしました。