2020年3月14日土曜日

小室等さんについての投稿 1

ぼくは、矢野顕子さんがすきだ。定期的に自分のCD棚の矢野顕子コーナーを見ては、にやにやする日々を送っている。矢野さんはいろんな人の曲を弾き語りでカバーしたアルバムを何枚も出している。音源化していないものも含めて、カバー曲の量は半端ではないが、その数の曲すべてが、自分の曲みたいになるからほんとにすごい。オリジナルが素敵なのは言うまでもないが、カバーは、元の曲が跡形もないくらいになったりしているものもあって、でもそれでいて元の曲の力もちゃんとどこかに残していて、ほんとに聴いていて楽しい。矢野さんのカバー弾き語りアルバムで、『SUPER FOLK SONG』という作品がある。もうまさに名盤で、このアルバムが一番すきという人も少なくないだろう。ぼくも大好きなアルバムだ。このアルバム製作時のドキュメンタリー映画があるくらいだ。人気だ。もちろんそのDVDをぼくは持っている。出会ったのは中学三年のときだった。受験はすぐそこだった気がする。矢野さんのベストアルバム『ひとつだけ/the very best of 矢野顕子』の次に買ったアルバムだった。ちなみに最初に買ったCDは、『children in the summer』のシングルだ。『SUPER FOLK SONG』の中には、ベストの中に入っていた曲もあったが、全体的に、こんなふうなのを聴いたことがなかった。衝撃的すぎた。中学の時なんて、歌とピアノだけの音源などほぼ聴いたことなかったような気がする。それが新鮮だったし、ピアノってすごいなあと思ったし、ピアノがまるで矢野さんの一部になっていると感じたし、なにもわからないなりにいろいろ衝撃を受けた。アルバムの中で、『夏が終る』という曲がある。『小室等』さんというシンガーソングライターが発表した曲で、詩人の『谷川俊太郎』さんの詞に、小室等さんが曲をつけたものだ。その頃は特に、詞にあまり関心がなかったと記憶しているが、それでもまずその詞に惹き付けられた。かるかや?おみなえしってなんだ。われもこー。とうすみとんぼ?射手座はわかるけど、よろいど。なぞのようなひとのうらぎり?聞いたことない言葉がたくさん出てきて、なんだろうなんだろうと思いながらも、この曲に出てくるのは美しい言葉たちだなあと思った。そして、中学三年の無知なぼくには不思議と感じたその言葉たちが乗るメロディーが、その言葉と合わさったときに、いい意味、というよりも、変な意味でもないが、ちょっと怖い意味でなのか、わからないが、どこかに連れていかれる錯覚にとらわれた。気持ちいいにはいいが不安みたいなものも雑ざったり、さみしさだったりもあったり、なんか悲しいものも感じたり、そんなようなものたちが曲が始まると徐々にだが、だだだだだだだだーーーーーーっと押し寄せてきて、きて、きて、きて、きて、ピークを迎えそうになると、カシオペア~はぁ~ン、、、チャン、チャン、チャン、チャン(ピアノの音)。と曲が終わり、それと同時に現実の世界に引き戻される。向こうにいるのはどちらかというと怖いような感じなのだが、現実に戻るとなにかそれはそれでさみしいような気持ちになる。夏が終るは、そんなとても不思議な不思議な曲で、中学三年のぼくをかなり惑わせた。なんか変だよなあ、きもちいいわるいなあ、どっちもあるなあ、と、アルバムを通して聴いても、この曲だけすごくひっかかった。谷川俊太郎さんは、教科書に出てきたので、知っていて、谷川俊太郎の詞は歌にもなっているのかーと思った。小室等さんのことは、全く知らなくて、この作曲者の名前のところをみてもピンとこず、『小室等』という名前は、ぼくの中に残らなかった。ひっかかる曲だったのに。中3という若さだからか。なんなのか。CDの一番後ろに矢野さんが一曲一曲コメントを書いているものを読んでいると、『夏が終る』のところに、『小室さん等のレコーディングで、、、、』と書いてあった。ぼーっと読んでいたぼくは、内容も読まずにそこだけ切り取り、矢野さんて小室さんとなんか関係あるんだなーと思った。ちょっと違う気するのになー、なんかまあわかりあえる部分とかやっぱりあるんだろうなー、あるのかなー、あるんだなーやっぱりー、ふたりともすごいしねー、どんな話するのかなー、などと思いながら、変な違和感を抱えつつ、他の曲のコメントもぼーっと読んでまたSUPER FOLK SONGを聴いた。それから二週間くらいたって、やっぱりなにかずっと違和感があって、ぼーっと読んでいたわりには頭から離れなかったあの『夏が終る』のコメントをもう一度読み直すと、さすがぼーっと読んでいただけあって、なんと『小室さん等のレコーディングで、、、、』ではなく、『小室等さんのレコーディングで、、、、』の間違いだった。ぼくは愕然とした。作曲者のところを確認すると、『小室等』と書いてある。そういえば、小室等という人が曲を書いているというのを、詞の谷川俊太郎さんを確認したときにいっしょにみたんだった、と思った。その『小室等』という人が作曲している『夏が終る』という曲のコメントに書いてあった、『小室等さんのレコーディングで、、、、』という部分を、ぼくは、『小室さん等のレコーディングで、、、、』と見間違えてしまった、一度作曲者を確認しているのにだ。どれだけぼーっと読んでいたのだろう。小室さん等ってなんだ。そんな言い方あるのか。小室さんやその仲間たちということなのか。仲間たちが等(など)か。で、だ。その当時の小室さんと言えば、日本の音楽チャートを独占的に盛り上げてらっしゃった、街中やテレビでは毎日のように源泉かけ流し的に流れていた音楽をつくっていた、TM NETWORKでもお馴染みの、『小室哲哉』さんだった。小室等さんがかいた曲なのに、小室さん等の、と見間違えるだけでかなりの恥ずかしさなのに、ぼくは、小室とみるやいなや、小室さんを等さんではなく、哲哉さんと勘違いし、つまり、『小室等さんのレコーディングで、、、、』ではなく、『小室哲哉さん等のレコーディングで、、、、』というふうに勝手気ままに解釈して思い込んで、そのまま2週間も過ごしてしまった。小室哲哉さん等にって、小室哲哉さんとその仲間たちって、そうだとしたらそれは、TRFとかglobeとか鈴木亜美さんとか華原朋美さんとかそういうことなのか。そのレコーディングなのか。矢野さんが小室さんの曲のレコーディング。今考えるとそれはそれでなんだか賑やかで楽しそうなのだが、気づいた瞬間から、恥ずかしさはどんどん加速し、なかなかスピードは緩まず、どこまでもどこまでもぼくの中を走り続け、ぼくを痛めつけ続けた。中学三年生。それまでの人生での恥ずかしさの集大成だったと思う。こんなこと誰にも言えなかった。というか、今の今まで誰にも言ったことがないと思う。とても恥ずかしかった。中学生なので、友達に言っても、基本的に誰も小室等さんは知らないだろうし、矢野さんにも興味がある人はいなそうだし、小室哲哉さんはみんな知ってるだろうから、バカにされることはなさそうだが、でも、それでも、ぼくはとてもとても恥ずかしい気持ちになった。あっ、いや、等さんを等(など)と見間違えることはやはりとても恥ずかしいことでやはりバカにされるだろう。よかった。友達に言わなくてよかった。どう考えても全国的にみて恥ずかしい事象だ。今ここで公表しているのもいいのか悪いのかが全然わからないし、いまだにすごく恥ずかしい。ひっかかる曲をかいたのにひっかからなかったはずの『小室等』という名前は、このとても恥ずかしい人に言えない勘違いによって、ぼくの中に深く深く刻まれ、同時に『夏が終る』という曲も、このことによってさらになにかもっと特別な曲になっていった。中学を卒業し、高校に入り、山崎まさよしさん等を聴くようになり、、、、あれ?『等(など)』が自然に出てきた。この場合の『等』は、斉藤和義さんとか、堂島孝平さんとか、スガシカオさんとか当時若手の男性シンガーソングライターの意味だ。等、、、なるほど。で、山崎まさよしさん等を聴いたり、洋楽等も多少、そして矢野さんの影響で少しジャズ等も聴いて、音楽の幅を広げつつ、矢野さんの音楽も随時チェックしながら高3の冬、またもや受験真っ只中に、彼女の弾き語りカバー3枚目の『home girl Journey』を手にいれた。これもやはり名盤だった。『SUPER FOLK SONG』と同じくらい、いや、ぼくの中では、越えていたかもしれない、そのくらいよいアルバムだった。そんな、高校三年の受験勉強浸けでなくてはならないはずのぼくを虜にした『home girl Journey』の中には、また、『小室等』さんの曲が入っていた。詞は、また、谷川俊太郎さんだった。あれから三年が経っていた。同じ受験シーズンだ。作詞 谷川俊太郎、作曲 小室等。岳彦よ、やり直せ。そう言われているのだと思った。『赤いクーペ』というその曲は、『夏が終る』とはまた違った意味で力のある曲だった。谷川俊太郎さんの詞は、高3のぼくには意味が理解できなかったのだが、なんといってもモーツァルトがでてきてなんかすごいと思った。しかもうたったりしてくれる。火の山!ゆるやかにほどける道。時代、世界、いのち。バックミラー、フロントグラス、サンルーフ。意味はわからなかったが、言葉が力を持っているみたいな感じはわかった。というか感じた。で、その言葉をメロディーがテンポよく僕に伝えてくれる。詞の端々から、車で走っている情景を浮かべることができた。メロディーの端々から、晴れていて、雲うつすっていってるけどあまり雲のない空で、山道を気持ちのいい雰囲気で走ってることを想像しながら聴いていた。心地がいい。悲しみは走りつづけるっていうところで、少し悲しくはなるが、幸せを連れるので、またなんか前向きになれる。そんなような感じで聴いていたと思う。夏が終ると違う、静かな心地よさがぼくを包んだ。曲のコメントに矢野さんは、小室等さんに対して、お元気ですか?と言っていて、2曲もカバーを録音しているし、矢野さんにとって、小室等さんという人は、大事な人なんだなあと思った。そして、矢野さんに大事に思われて、小室等さんいいなー羨ましいなーと思った。『赤いクーペ』は、アルバムの中の、同じく谷川俊太郎さんの詞で、息子さんの谷川賢作さん作曲の『DiVa』の名曲『さようなら』とともに、お気に入りになった。よくよくよく聴いた。その後、なんとか大学に合格して、静岡の田舎を離れ、ぼくは東京に出てきた(住んでいるのは埼玉)。東京には、音楽がたくさんに溢れていた。静岡の田舎にはないものがたくさんあった。ぼくは欲を剥き出して、CDやレコードを買い漁った。そして聴いた。だがなぜだろう。気になって気になってしょうがなかったはずの、『小室等』さんの、『夏が終る』と『赤いクーペ』の入っているCDは、買うことはなかった。ほんとによくわからない。カバーアルバムに入っていた大貫妙子さんや山下達郎さんのものは買ったのに、小室等さんのものは買っていなかった。今思うととても不思議だ。それでも、しばらくして、小室等さんの『23区コンサート/東京旅行』というレコードを買った。もっと普通のレコードかCDを買えばよかったと思うが、小室等さんが23区でコンサートをしたものをたまたま録音していて、よいのでレコードにしてみました、というこのアルバムは、それぞれの会場で迎えたゲストのみなさんとの演奏や、お話を秒単位で収録していて、とても変なライブアルバムだった。アルバムは谷川俊太郎さんの詞の朗読から始まる。変だ。曲を挟んでチューニングも収録しており、曲中にはこのコンサートは盛り上がらないから無理に手拍子をされると戸惑うみたいなことをいってる。そのあと矢野顕子さんがおばあちゃんのお話で登場する。曲と話を交互だったり続けてだったりで納められていて、たっぷり2時間二枚組だ。でも、最初は長いし変だと思ったのだが、このアルバムには、聴いているうちになんだかはまり、話も面白くて、最終的にかなり聴いた。小室等さんは、聴いたことのある曲を何曲も歌っている人だということもわかった。そして、小室等さんの歌を初めてこのアルバムで聴いたのだが、なんというか、うまく言えないのだが、その、まあ、はっきりいって、素敵だった。声がとてもよくて、好みで、こんな声、この人しか出せないから、声を聴いただけですぐわかるなあと思った。で、歌唱は深みがあり、歌の作り方が丁寧で美しくって、なんだかぼくの胸を打ってきて、とにかく心地好かった。でもその心地よさの次には陽水のギャラが一万、ぼくが二万でした、みたいな話がでてきて、なかなか歌に浸らせてもらえなかった。でもそれが面白かった。東京に出てきて(住んでいるのは埼玉県川越市)、小室等さんのことは色々調べて日本の音楽界になくてはならないとかどんな人かわかってはいて、もう中3の時のようなことは間違っても起きないそんな状態の認識にはなってはいたのだが、ようやく小室等さんをこのアルバムによって知ることができた気がした。その後、小室等さんのCDを数枚買って聴いたあと、とうとうぼくは、あの、『夏が終る』の入った、『いま生きているということ』というアルバムを手に入れた。

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