2020年3月18日水曜日

松延康さんについての投稿

「たけひこー、見田くんだよー。」見田くんから家に電話がかかってきた。高校二年生の冬だ。静岡の田舎に住んでいたぼくが、当時みんなすでに結構持っていた携帯電話を持っていなかったため、東京に住んでいた見田くんは、用事があるたび、家電にかけてきてくれた。「今度キャロルのギターの人とか、プロのハーモニカの人とかのライブの前座やるんだけど、いっしょにやんない?」だいたいこんな感じだったと思う。ミーハーなぼくは、あの矢沢永吉さんのバンド『キャロル』のギターの人と聞いてすぐにやりたいと思った。そして、キャロルに紛れてしまって、気づくのが遅くなってしまったのだが、プロのハーモニカの人ってそれ、よく考えたらすごいじゃん!と思った。「えっ!何て人なんて人?」興奮ぎみに話していたと思う。「いや、ちょっと名前覚えてないんだけど。」見田くんは落ち着いていた。さすが都内に住んでいるだけあるなと思った。結構長くしゃべっていて、母親に早く切りなさいとか何回も言われた気がする。こうしてぼくは、来年受験なのに、東京に、キャロルのギターの人と、プロのハーモニカの人のライブの前座をしに行くことになった。見田くんのところへは、路上ライブをしに何回か行ったことがあった。ぼくは、年に2、3日しか休みがない、ちょーきびしいバレー部に入っており、その都度体調を崩したことにして休んで行っていたのだが、今回もそうすることにした。毎回だが、キャプテンに、「東京いって歌ってくるから、なんとか先生にうまくいっておいておくれよ。」と、とてもめんどくさい役割を任せてしまっていた。いまだに仲良くサッカー観戦などする彼は、当時からほんとうにやさしかった。ありがとう、キャプテン。だが、親にも許しをもらって、バレー部の先生対策も万全というところで、ぼくは、思わぬ事態に直面してしまった。なんと、耳から血が出て困っていたので耳鼻科にいったところ、あろうことか、このタイミングで、中耳炎になってしまっていたのだ。キャロルのギターの人とプロのハーモニカの人の前座が迫っているのに、中耳炎。完全に行けないと思った。まったくお話にならなかった。ぼくはとてもがっかりした。横浜に住んでいる二番目の姉からちょうど実家に電話がかかってきて、母がその事を言うと、電話を変わられ、「おいちゅうじ!ちゅうじくん!大丈夫かね?はーっはっは!ちゅうじーー!くるしいーー!」とか言われて、非常に腹が立った。ただでさえ行けないという状況でいらだたしいのに、「ちゅうじえん」まで言わずに、「ちゅうじ」で止めるところが、またその「ちゅうじ」という音が、腹立たせる効果抜群で、怒り狂いそうになった。が、抑えて抑えて、はいはい、と懸命に受け流した。このまま行けないのか。せっかくのキャロルのギターの人とプロのハーモニカの人なのに。いてもたってもいられなくなったぼくは、通い始めた耳鼻科にいったとき、先生にこのことを話し、なんとか行けるようにしてくださいとお願いした。先生は、じゃあ、と、2、3日か後に、急ぎで耳の膿をとる簡単な手術をして、一か八か、その後の経過を見る、というなかなかな対策をしてくれた。この場合失敗とかではなく、痛みがおさまらなかったら痛くて行けないとかそのくらいで、別に耳に影響が出るとかではなかったのだが、ぼくにとってはこの耳の状況が一刻も早く改善してほしいので、この大勝負に、人生すべてをかけるようなそんな勢いの中での挑戦だった!なんの処置のためにか忘れてしまったが、手術前に、看護婦さんが、「右手出して。右手!だから右っ!そっちはひだ、、、あ、ごめん、右手だったね、ごめんごめん。」とか言っていてとても不安にかられるスタートだったのだが、手術は無事終わり、耳に違和感を抱えたまま、その後もよくなるように病院に通い、たしか鼓膜に穴をあけたと思ったので、結構痛かったが、きびしすぎる練習でおなじみの部活も毎日やって、ついに、前日になって、少し痛いというか違和感あるけど、まあ、部活もやってるし、いける!と判断し、親にも許可をもらい、ぼくは、華の都大東京の方へ、鈍行で、それはそれはゆっくりと向かった。体調を崩して部活を休むのは2日が限界のため、当日に行ったと思う。どこをどう行ってどこで見田くんと合流してとかまったく覚えていない。ぼくの記憶はライブ会場の、小平のバレエスタジオのドアの前からだ。見田くんとともに、バレエスタジオのドアを開けて中に入ると、きれいに椅子が並べられ、照明などもつられ、壁には一面に暗幕がはられ、音響の機材なども整っており、いかにもこれからなにか始まりそうな雰囲気になっていて、とても圧倒された。東京ってすごいなあと真剣に思った。入り口であいさつをすると、中から、ただならぬ雰囲気を持ったおじさんが出てきた。「おお、いらっしゃい見田くん。この子が言ってた子?こんにちは、松延です。今日すごいよ。ハーモニカの妹尾さん来るんだよ。」おじさんは畳み掛けるように話しかけてきた。いったい誰なんだこの人は。よくわからなかった。いきなりすごい雰囲気の場所に連れてこられて、すごい雰囲気のあるおじさんに話しかけられ、ぼくは困った。困ったが、妹尾さんという名前を聞いて、とっさに、「えっ!妹尾さんって、ホーナーのカタログに載ってる人ですか?」ホーナーは、ドイツの楽器メーカーである。ハーモニカの生産がかなり有名で、ぼくや、長渕剛さん、ゆず、ボブ・ディランなどが使っているあの小さいハーモニカもつくっており、『ブルースハープ』という機種があまりにも有名になりすぎて、正式名称もこれといってないのだが、ブルースハープという名前で呼ばれるのが一般的となっている。そのホーナーのカタログに、有名なハーモニカ奏者が、国内外何人も載っているのだが、その中に妹尾隆一郎さんという人がいたのをぼくは覚えていたのだ。「そうなの?載ってるの?まあでも載っててもおかしくないよ。有名な人だもん。ハーモニカ教えてもらいなね。」おじさんは、小学生に話しかけるようにやさしくぼくに話しかけた。ぼくも高校生なので、違和感を感じたりすればいいのに、急に東京をまざまざと見せつけられてかなりこわくなっていたため、おじさんがやさしく話しかけてくれて、なんだかとてもほっとしていた。見田くんとぼくは荷物を置いて、中に入って準備をみていた。なんだかいろんな人がいろんな準備をしていてなにがなんだかわからなかった。ぼくたち以外にも2組でるようで、その人たちも少し離れたところにいて、何やら楽器など準備しているようだった。東京でやってる人なんかと同じところでやって恥をかかないだろうか、かくだろうな、かくなこれは。ぼくはとても不安になってきていた。見田くんが頼りだった。キャロルの人やプロのハーモニカの人はまだ来ていないようだった。会場の準備が割りと整ったところで、1組ずつリハーサルが始まった。何番目だったか忘れたが、ぼくは緊張していた。こんなふうにしっかりとマイクなどを使って歌ったりするのは初めてだ。どうしたらいいのか。ぼくたちの番になった。ステージに出て、2人並んだ。「じゃあ、ギターだしてー。」おじさんがいった。あのおじさんがなんなのかが全然理解できなかった。誰なんだ。そしてここはなんなんだ。なんでバレエスタジオでコンサートをするのだ。おじさんとバレエスタジオの関係はなんだ。わからないことだらけのまま、サウンドチェックがはじまった。ぼくもおじさんに従って声を出した。見れば一発でわかるのに、ぼくは、なるべくはじめてとばれないように気を使っていた。じゃあなにかやってと演奏するように言われたのでぼくたちは演奏をした。歌ってみると、声がフワァンフワァン響いて気持ちよかった。なんなんだこの効果は。今はリバーブだとわかるが、当時のぼくには東京の魔法にしか感じられなかった。全部東京ってすごいなと感じてしまっていた。いちお確認するが、ここは小平だ。リハーサルをおえたぼくは、なにか、ひとつ、成し遂げた気になってしまっていた。会場にいる人たちが、ステージで歌ったことで、自分達がなんなのかを理解してくれたと感じたので、さっきよりもこの場所にいるのが楽になった。コンサートが始まるまではかなり時間があったので、見田くんと音を出したりして過ごしていたら、他の前座の人もハーモニカを使ってフレーズを吹いていたので、何気なくそのフレーズを真似して吹いてしまったら、チラッとこちらをみて、「あっ、どうも。」と言われた。ぼくは来たときに比べ、かなりリラックスしていた。「ミュージシャンの方到着しました~。」その声とともに、3人の楽器を盛った人たちが中に入ってきた。会場全体が拍手に包まれた。ついに対面だ。キャロルのギターの人とプロのハーモニカの妹尾さんともう一人の人。どれがどの人かわからなかったが、松葉杖をついた髪の長い人、クラシックのバイオリン奏者のような雰囲気の人、そして、テンガロンハットを被ったかなりの雰囲気を持った人の3人だった。これはなんかすごそうだなと思った。おじさんと3人は、割りとすぐにリハーサルを始めた。ギターを持っていない人が妹尾さんだとわかった。残りの二人は二人ともギターを持っていたので、キャロルのギターの人がどちらかがまだわからなかった。でも、3人がどんな演奏をするのかとても楽しみだった。演奏が始まると、ハーモニカの音に耳を奪われまくった。なんだこれは!これがぼくと同じ種類のハーモニカなのか!かっこよかった。かっこよすぎて困った。枯れた渋いブルージィーな音が、バレエスタジオ内に響き渡っていた。これがプロか。ぼくは、本物を思い知らされた。2人のギターの人も素敵だった。出音が違った。プロ、そして、東京はすごいんだなと思った。リハーサルが終わり、おじさんと3人の会話を聞いて、クラシックのバイオリンとか弾いてそうな雰囲気の人がキャロルのギター『内海利勝』さんということがわかった。ハーモニカは『妹尾隆一郎』さん。そして、テンガロンの雰囲気抜群の方が、トランザムというバンドの『西濱哲男』さんだった。今はわかるが、この時トランザムを知らなかったので、ピンとはこなかったが、西濱さんの声がいい声過ぎて、ミーハーなぼくも、もはや、知名度などはどうでもよくなっていた。どうやって時間を過ごしたかまったく覚えていないが、時間もかなり経ち、いよいよコンサートが始まった。前座の順番はたしかぼくたちが一番最後だった。二番目の人は、ファーのついた上着を着ながらやっていて、汗をかきまくっていた。2組ともぼくたちより年上の方たちだったと思う。いよいよぼくたちの番だ。2曲やるのだが、1曲は見田くんが一人でオリジナル『16号』を歌った。「じゅーろくごー、ひたはしーれー」その時初めて聴いたが、かっこいい曲だった。会場の反応もますまずだったように思う。そして2曲目。ついにぼくは、東京の、プロのコンサートを観に来た人たちの前で演奏する瞬間をむかえた。着ていたスウェットを脱ぎ、懸賞で当てた、斉藤和義さんがやっていた『seven』というバンドのTシャツをなり、ぼくはステージにむかった。見田くんと何度も演奏してきた、『山崎まさよし』さんの『月明かりに照らされて』という曲を演奏した。ハーモニカをふんだんに盛り込んだ早いパッセージの名曲で、見田くんとの息はこの頃から絶妙に合っており、ぼくはがむしゃらにだが、とても楽しく演奏しきれた。見田くんは相変わらず落ち着いていた。会場の反応は、覚えていない。ぼくの東京デビューは、こうして無事に終わった。それから、少し休憩を挟んで、あの3人『BLUES FILE No.1』の演奏が始まった。『月のない夜に』という曲からだった。内海さんの少し癖のある歌がかっこよかった。妹尾さんは、しゃがれた音を歌にからめつけてあそんでいるようだった。西濱さんのハモりも声的にただのコーラスにおさまらない独特なもので素敵だった。これか!プロってこういう感じか!50人くらいでいっぱいの会場だったので、とても近くで観ることができ、プロの技をどんなかたちでも盗もうと必死になっていたが、始まった瞬間、リハーサルとはまったく違う雰囲気に圧倒されて、ぼくはただただ楽しんでいた。2、3曲目にトラブルは起きた。バチバチ!という音がスピーカーから響いた。「あれ?どうしたのこれ。いったん切ろうか。」西濱さんがいった。会場はとてもピリリとした空気になった。なんだなんだ、何が起きたんだ。バレエスタジオとおじさんの謎もまだ解明できていなかったぼくは、新たな謎に直面し、会場の雰囲気も重くなったため、どんよりとした気持ちになった。このまま音が出なくなって3人が怒って帰っちゃったらどうしよう、お客さんも金返せみたいになったらどうしよう、ぼくもなにか責任をおわなければならなくなるんじゃないだろうか、だってさっき演奏させてもらったときどっかに触ったからこうなったかもしれないし、どうしようどうしよう、怒ってる?誰か怒ってる?西濱さん?内海さん?誰怒ってるの誰?ぼくが1人で混乱の真っ只中に差し掛かりそうになったとき、「こういうことよくあるのよー。もうー。音でない音でないと思ったら電池入ってなかったとか、電源入ってなかったとか。すぐ出るからちょっと待っててねー。」妹尾さんが会場の雰囲気を一気に明るくしてくれた。妹尾さん、何て素敵なんですかあなたは。ありがとうございます。ありがとうございます。はっきりいって、田舎から出てきて1曲歌っただけの佐野少年にはなんの責任もあるわけないので、ありがとうございますというのも烏滸がましいくらいなのだが、妹尾さんの一言は、このコンサートをある意味救ってくれていた。その後すぐに原因がわかり、コンサートは再開した。その後は『forever』という西濱さんの歌全開の彼のオリジナルや、『シャイニングロード』という内海さんオリジナルの珠玉のバラードなど、ブルースのみならずいろんな曲が演奏され、アンコールまで大変盛り上がって、みんなが笑顔になってコンサートは終了した。とても楽しかった。楽しい時間だった。コンサート後は、片付けなど手伝い、打ち上げをその場で行うということだったので、見田くんとぼくも残って参加することにさせてもらった。打ち上げ準備の途中、なにもすることがなかったぼくのところにおじさんが来て、「妹尾さんにハーモニカ教えてもらいなよ、来て来て。」と、ぼくを妹尾さんのところに連れてってくれた。妹尾さんは、「へー、やってるの?どれ、吹いてみて。」いきなりで緊張したが、ぼくは今できる一番難しいことを吹こうと必死でアピールした。「わかったわかった。まず、穴にしっかりと息を入れる練習しよう。ストローありますー?」スタジオのキッチンにストローをもらいにいって妹尾さんのところに戻ると、「ストローに息いれてみて。」と言われた。ぼくは、ストローを楽器のようにならせばなんかすごいと思われると思って、変な吹き方をして、ブー-っと変な音をならしたのだが、「いや違う違う、もっと普通に吹いて。」と言われた。今度は普通に吹くと、「そうそう、それくらいでいいんだよ。じゅうぶんなの。それでこう吹けばじゅうぶんいい音がなるんだよ。」と、ハーモニカを持ち、妹尾さんはプーッととてもいい音を出して見せた。ぼくは、妹尾さんにいいところを見せようと必死に力任せに吹いていたのだが、そんなことは必要ないんだよと、なにもわかっていないぼくに、とてもわかりやすく説明してくれた。「わ、わかりました。ありがとうございました!」ぼくは根本的に自分のハーモニカを改革され、うれしいやら悲しいやらで、今はこの方から学ぶ前に自分で練習してからまた教えてもらおうと妹尾講座を勝手に終了しようとしたら、「待って待って、まだまだ終わんないよ。ほらまだやろうよ。」といって、妹尾さんは、誰かもわからない下手くそな高校生に、打ち上げが始まってからもずーっとぼくに教え続けてくれた。たまにおじさんが来て、どう?みたいにちょっかいを出してきたり、内海さんも話しかけてきてくれたりして、なんだかとても幸せな時間だった。その時間でもちろん劇的にうまくはなるわけがなかったが、ハーモニカのことをこの時かなり知ることができた。ぼくはとても間違っていた。間違いを正していただいた妹尾さんに改めてお礼を言いたい。宴もたけなわてきな雰囲気になり、ぼくは、見田くんと見田くんの家に帰って泊まって翌日静岡に帰った。部活は、というか、顧問の先生は、キャプテンのおかげで、「岳、お前もう大丈夫か?」みたいな感じだった。セーフだった。その後も毎日部活を続け、学園祭では、友人と『月明かりに照らされて』をやったり、見田くんがきて学校の屋上で演奏したり、人前で演奏する機会も多少はあったぼくにまた、大舞台がやってきた。見田くんから、またあのおじさんからブルースファイルの前座を頼まれたというのだ。前回は3人だけだったが、今度は、ブルースファイルのフルメンバー、ベースとドラムも加わってやるという。高校3年の夏だった。受験生にとって、とても大事な時期だった。今考えると、よく親は許したなと思う。でも、ぼくはどう説得したかわからないが、これが終わったらしっかりやるからみたいなありふれた言葉を投げかけたのだと思うが、今度は、同級生の、ベース『清裕介』くんと、ドラムの『池田しげのぶ』くんに、ベースとドラムの人もいるからとかなんとかいって頼んで、3人で、また鈍行でゆっくりと、華の都へ向かったのだった。見田くんちに泊めてもらい、今度は、マンションの広いエントランスを会場にして行われた。エントランスでやるとか、マンションで夜だったから音とかもあれだろうし、あれはなんであんなことが可能だったのか全然わからないのだが、お客さんは100人ぐらいいただろうか。バレエスタジオよりも大きな規模だった。今回は前座はぼくたちだけだった。ぼくと見田くんは、曲をやる前に、コード二つくらいでハーモニカを自由に吹くという、ハーモニカのプロの演奏前に、ハーモニカがうまくなければ全く面白くないことに挑戦してしまい、変な雰囲気になったまま曲をやって、あまり手応えのないまま演奏を終えた。せっかく来てくれた池田くんと清くんに申し訳なかった。でも、ブルースファイルの演奏は素晴らしく、楽しかったし、ベースの『荒巻茂生』さんは空き時間に、清くんのウッドベースに興味を示してくれて、かっこいいフレーズを結構長く弾いてくれて、清くんも、荒巻さんが弾いてくれたベースといって帰ってからも喜んでいて、何だかんだ楽しい思い出である。挑戦も失敗したかもしれないが、なんか嫌な思い出になっていないのは、挑戦したことが楽しかったのだと思う。この時の打ち上げで、妹尾さんと西濱さんが、「松延さんて、名刺もらって、それに博士って書いてあったけど、何者なのかな?なんだろうね。」と言っていて、ちょうど通ったおじさんに、「あっ、ねえねえ、松延さん、松延さんて、なに博士?」と聞き、「農学博士です。」とおじさんが答えるという事件があった。あのおじさんは、農学博士だったのだ。農学博士がなにをするか全くわからなかったが、バレエスタジオの入り口のところからそうなのだが、なんかすごい人なんだなと引き続き思った。ぼくが大学に入り、東京に出てきて(住んでるのは埼玉)、見田くんと毎日遊んでるうちに、そのおじさん、『松延康』さんのところに通うようになった。松延さんのお姉さんがバレエスタジオをやっており、だから、あのときの会場は、お姉さんのバレエスタジオだったのだが、そこのバレエスタジオの発表会の手伝いにいったり、バレエスタジオでのコンサートの前座を何度もやらせてもらったり、施設に演奏に行ったり、松延さんの教えている専門学校に演奏しに行ったり、原宿にいまもまだあるのか?新潟館みたいなとこに演奏にいったり、なんかほんとに松延さんとよく遊んでもらった。ずーっと松延さんと遊んでた。松延さんは、ぼくたちにほんとによくしてくれた。ぼくの師匠の続木さんをいっしょに観に行って、すぐにバレエスタジオのコンサートの話をして、3ヶ月後くらいに実現したり、行きつけのライブバーに紹介してくれてライブできるようにしてくれたり、ぼくたちが喜ぶようなことをたくさんしてくれた。ぼくらは、松延さんの手伝いみたいなことをやりながら、音響のこととか、会場のセッティングのこととか、なんか普段学べないようなことをたくさん教えてもらって、今それがとても役立っている。富士宮に演奏しに来てくれたりもした。そのときは松延さんのお姉さんも来てくれた。ぼくらよりも会場を盛り上げていた。ぼくらが今あるのは松延さんのおかげといっても言い過ぎではない。ほんとにお世話になった。ぼくらはぼくらでそれなりになんたかんだ忙しくなって、松延さんはテレビにもよく出るようになったりしてすごく忙しくなって、今たまに松延さんがライブに来てくれるときに会うくらいしかなくなってしまったけど、忙しいのに来てくれることがすごくうれしいし、なんかもっと定期的に会いたいなあと結構ずっと思っている。実際会うよりテレビで会うことの方が多いけども、松延さんのやさしさに、はっきりいって、これからも甘えたい。そして、ちょっとずつでも、ぼくらの成長をみせていきたい。まとまらないが、mitatakeにとって、『松延康』は、かけがえのない農学博士だ。またいっしょに、内海さんの名曲『シャイニングロード』を演奏したい。



松延康さんは、


1957年東京生まれ。国文科志望の高3の秋、彼女の「獣医さんって素敵」の一言で志を翻し獣医学部を受験し失敗。獣医になれないまま現在に至る。4年間のプータローの後、北里大学獣医畜産学部入学。同大学院にて農学博士。青森中央短期大学専任講師、看板職人、ガードマン、国立精神神経センター研究員を経て有限会社アート・アンド・エデュケーションま組設立。理科教育研究フォーラム夢・サイエンス代表。小学校理科専科、中学校理科教諭として学校教育現場での実績もある。北海道から沖縄まで、幼稚園、小学校科学館等を中心に、子どもたちばかりでなく、教員、シニアをも対象に年間80カ所120クラス以上の理科実験授業を展開している。テレビ・雑誌、CM等、メディアでも幅広く活動している。


□ テレビ・ラジオ出演

□NHK教育テレビ「となりの子育て」
□日本テレビ「世界一受けたい授業」「トリックハンター」「うわっ!ダマされた大賞!」  「マツコの月曜から夜更かし」「ドキドキMAXランキング」
 □フジテレビ「ノンストップ」
 □テレビ東京「ソレダメ!」「たけしのニッポンのミカタ」「これ考えたヒト天才じゃね!」  「ウソのような本当の瞬間!」「世界の衝撃ストーリー」
 □ テレビ朝日「Qさま!!」「いきなり黄金伝説」
 □ TBSラジオ 「土曜ワイドラジオTOKYO永六輔その世界」 等、多数

□ CM

ダンロップスタッドレスタイヤ「WINTER MAXX」インターネットCM PV監修・出演

□ 企業・学会イベント

日本電気(ガリレオクラブ、ティーチャーズ・サイエンス・ラボ) 住友生命保険(スミセイアフタースクール)、東急ハンズ(GW、夏休み企画) 日本医学会総会2019 くすりステージスペシャルゲスト、等

□ 著書・監修

実務教育出版「松延康の理科実験ブック」 フレーベル館キンダーブック「しぜん」 プレジデント社「料理+理科」 等

□ 新聞・雑誌、等

読売新聞(全国版:駆ける、等)、朝日、毎日新聞、地方紙に記事多数 四谷大塚「Dream Navi」 DNラボ、プレジデント社「プレジデントFamily」 薬学部・薬剤師向け情報誌「MIL」、少年写真新聞「科学の面白さを伝える人々」 都市出版「東京人」特集生命科学の開拓者たれ、扶桑社「文具自慢」プロの愛用品を大公開、各地のメディア、フリーペーパー等、記事多数


こんな人です。松延さんの実験授業ぼくも受けたいです。テレビにもよく出ていて面白いので、是非松延さんの出ている番組チェックしてみてください。

松延さん、一度書いていただいたのに、中止後に再度書いてくださり、本当にありがとうございました。













いまだに着てます。



0 件のコメント:

コメントを投稿